2017年4月30日日曜日

武田軍も越えた?青崩峠は遠い・・・☆ 青崩峠オフその1

別ブログ「つれづれなるままに・・・natchdesの雑記帳」にも書きましたが、Twitterでつながってる城歩き・古道歩きのおともだちと数人で、「信州側から青崩峠を歩いて越えて遠州・高根城を攻める(?)」秋葉街道歩きのオフ会をすることになったので、埼玉西部から飯田線の旅を経て平岡駅の「ふれあいステーション龍泉閣」に前泊し(→前日の記事はコチラ)、さてオフ会当日。

宿の前にお迎えにきてもらった大型のタクシーに乗り込んで、国道418号線を天竜川の支流の遠山川沿いに、武田信玄が三方ヶ原合戦の際に進軍したとされている「秋葉街道」へと向かっていきます。

タクシーの中でわいわいとしていた話していた中身から一行が「城・古道・歴史好き」と知った運転手さん。「遠山川沿いにも『長山城』という古い城跡があるよ」。


その写真がこれ。走りながらなんでうまく撮れませんでしたが、川の蛇行したところに突き出しているあたりです。

長山城というのは、秋葉街道和田宿のあたりにある和田城を本拠とし、周辺の遠山郷を支配していた信州遠山氏の城だということで、後で調べてみたら川からの高さ100mほどの山頂を利用した典型的な山城。

現在でも北の堀、西曲輪、本丸、小曲輪、南の一の堀、南の二の堀、物見台などの遺構を見ることができるそうです。


遠山氏は和田城のほかにも遠山谷一帯に多くの城を築いているようですが、長山城はその中でも規模が大きくて、遠山氏は始め長山城にいて後に和田城に移ったとも伝えられています。

また、この長山城とは川(と国道418号線)を挟んだあたりに、信玄が秋葉街道を進軍した際に立ち寄って喉を潤したという伝説の「信玄滝」があります。

お蕎麦屋さんの「なんちゃって城」な建物の後ろだということで、車からは看板だけで滝そのものは見えませんでしたが、遠山郷観光協会のHPによれば、遠山川にある滝の中では「随一の名瀑」だそうです☆

次の地図の赤線が秋葉街道なのですが、遠山川(緑線)沿いの②あたりにある信玄滝と長山城は結構外れた場所にあるので、三方ヶ原合戦の時には寄ったというのはちょっと無理があるような・・・?

秋葉街道は、北は諏訪湖から南は遠州浜松まで、中央構造線の谷間を真っすぐ!走っています。

「秋葉街道」のいう呼び方は江戸時代に秋葉信仰が盛んになってからのものですが、遠州から信州への「塩の道」としても古代から重要な道でした。

元亀三年(1572)、信玄は遠江・三河を攻略するために軍を三方に分け、自身は秋葉街道のルートから青崩峠を越えて天野氏の犬居城に入ったといわれています。

甲州から遠州浜松へのルートは富士川沿いに南下する道も考えられるのですが、信玄があえて青崩峠越えを選んだのは、秋葉街道沿いには大きな勢力がなく、遠山氏・奥山氏・天野氏を押さえてしまえば容易に通過できるルートだったからなのではないか、という気がします。


地図を見ると、高い山々の間をまっすぐ抜ける道なので、脇から見られたり攻められたりせずに軍勢を動かせそうですし。。。

ちなみに、和田城(②)の遠山氏は、信玄が下伊那に侵入する前年の天文22年(1553年)にその配下に入っていて、永禄12年(1569年)には奥山氏の高根城(③)を落としており、三方ヶ原合戦にも武田方として参加しています。

さて、タクシーから降り立ったのは、平岡から登ってきた遠山川沿いの国道418号線(緑線)と秋葉街道(赤線)との合流点。

本当は青崩峠越えと同じく三方ヶ原合戦の時に進軍ルートになったのではないかと言われる兵越峠越えの道(地図の青線)との分岐点近くまで、タクシーで行ってしまおうと思ってたんですが、ちょっとした勘違いから、今回はこの合流点からスタート!


スタート時点でちょうど朝の8時くらい。
秋葉街道を通る旅人が和田城のあるあたりの和田宿を出立して峠越えをするには、ちょっと時間が遅いかも?(^^;)

歩き始めてまもなく見つけた旧南信濃村(現飯田市)のマンホールのふた。
青崩峠を越えるまでは長野県飯田市です☆


道端にはいくつかの石仏や祠が、番号や名称の書かれた札とともに鉄パイプで囲われた柵の中に寄せ集められて?いるのを見ました。

私たちは秋葉街道を踏襲している国道152号線の旧道を青崩峠に向かうのですが、川の対岸には「和田バイパス」という新しい道ができているので、そちらの方から工事に伴って移動されてきたのでしょうか。。。


元の設置場所や由緒がわかるように、ちゃんと記録や管理をしてほしいものだなぁ・・・と思いつつ・・・

スタートから1時間ほどかかって、やっと最初にスタート地点にしようと思っていた場所に到達。道の角に小さな商店?と自販機、お手洗い。
青崩峠に向かって、最後の水分調達&お手洗いポイントです!


川の対岸を走っていた、新しくて広いバイパス道路もこのあたりまで。
代わりに川を挟んだ眼下には、川に沿ってまっすぐな道に由緒ありげな建物。

歩きながらスマホで調べたら「簗ノ木島番所」といって、慶長19年(1614年)に青崩峠麓の簗木島に置かれた番所の建物で、天明7年(1787年)の山崩れにより今の場所に移って明治3年(1870年)まで機能していたものらしい・・・

ということは、あちら側の道のほうが本当の秋葉街道旧道?
とは言っても川を渡ることもできないので、ちょっと悔しいけれど目で道を追いながら歩くことに。


そういう目で見ると、番所のあった道には点々と古そうな石碑や石仏が・・・
ただ、道自体は新しくまっすぐに作ったようなので、工事に伴って集めたり移動したりしてるようにも見えます。


だんだん山肌に岸壁が見えてきた国道152号をそのまま歩いていくと、川に向かって、どーん!と巨大なすべり台?!


これは三遠南信自動車道青崩トンネル工事現場に入る工事車両のための道路?のようです。

青崩峠という名前の通り、峠付近の地質構造は中央構造線による破砕帯で青く崩れやすい岩盤なので、トンネル工事には着工しているものの、いまだ開通のめどは立っていないとのこと。


さらにしばらく歩くと、兵越峠への林道との分岐点に到達です。

今まで歩いてきた国道152号線も、青看板で示されている通り青崩峠方面は「×」車両交通不能区間となっていて、車で浜松側に抜けるには兵越林道から草木トンネルを通って、迂回することになります。

三方ヶ原へ向かう武田軍も、本隊は右へ分隊は左へ・・・?


分岐から先は「国道152号線」とはいいながらも林道並みの道路。
杉の落ち葉がかなり落ちてはいるものの、とりあえず車1台が通れる舗装路が続いています。

しばらく歩いていたら、右手の林の中に「秋葉街道」を指し示す案内板が。
どうやら、秋葉街道の古道のようです。ずっと川の方に下っていて、地図で見るとどうやら先ほど川べりに見えていた「まっすぐな道」に続いているようです。


途中には廃屋も。
この調子だと結構車で奥まで行けるのではないかと思いながら歩いていましたが、進むに連れて、ところどころにかなり大きな落石が転がってたりし始めました。


道路わきの斜面が崩れてしまってるせいか、人ひとり通れるくらいの道幅の場所も。
そして、「青崩」の名前の由来にもなっている青い岩盤が見え始めてきました。


青い岩盤のところは特に地盤がもろもろに弱いらしくて、道ごと崩れてしまってます☆


もともと沢を渡る道だったところも、がけ崩れでどこが道かわからなくなってる・・・(^^;)


しばらく登っていくと、また道路の傍らに「秋葉街道」の案内板。
またも古道を指し示しているらしいのですが、少し入ってみても道がよくわかりません。

いったい古道はどのように続いていたんでしょ?


ところどころ広い道になったりもしながら、くねくねと道は登っていきます。
そして・・・


ついに舗装路がなくなってしまい、ハイキング道になってしまいました。
しかも、一人ずつしか歩けない急な上り坂(><)

階段の上り口にある案内板には「これより徒歩約20分」
ここまで3時間以上歩いてるんですが、まだまだ遠い~☆

ということで、峠に登る最後のクライマックスは次の記事(「昔の人は健脚だ~! 青崩峠オフその2」)へ続きます・・・(^^;)



※平成29年7月20日追記
 7月16日に行った藤枝市郷土博物館にて入手した平成28年度特別展「駿河を駆けた武田軍団」図録によると、三方ヶ原合戦の際の武田信玄本隊の遠江侵攻は、武田氏の発給文書や書状類などから従来説の青崩峠越えではなく、次の図の通り甲斐から駿河に入り、田中城・大井川・小山城を経て高天神城を攻め、久野城・見付から二俣城攻めにかかるルートであり、青崩峠から侵攻したのは山県・秋山が率いる別働隊である、と訂正されているとの事です。


 ただし、この記事のオフ会時点では従来説を頭に置いて歩いて(わくわくして)いますので、本文内は修正せずに、ここに追記しました。


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