2016年6月4日土曜日

地蔵峠の長塁、そして松代 -信玄棒道歩き(真田~松代)-<後編>

さて、「念願の地蔵峠! -信玄棒道歩き(真田~松代)ー<前編>」 に引き続き・・・
真田側から旧地蔵峠を越えて「峠の見晴らし処」でひと息いれたところで。



次の地図の下の方にも手書きで書き入れましたが、この新地蔵峠から西側に500mほど林道を入っていくと、そこに城郭研究家の藤井尚夫先生が「地蔵峠の長城塁壁」と呼んでおられる城跡?があります。

この塁壁については、以前からワタシの「城歩きのお師匠様」サイガさんに「地蔵峠には真田が作ったと思われる長塁があるよ」と教えていただいてて、今回のそれを訪ねるのが「地蔵峠越え」の目的のひとつでもありました。

ところがこの長塁、普通の城ガイドブックなどには載ってなくて、なかなか場所が特定できない・・・

やっとのことでお城ジオラマ復元堂の二宮博志さんが書かれた「真田三代名城と合戦の秘密」という本に縄張り図が載っているのを見つけたので、それをもとに位置を特定して地図に落とし込みました。

(この本の図からでも、場所の特定には苦労しましたが・・・笑)

で、場所を落とし込んだ地図をもとにのこのこ訪ねてみると・・・




薮の向こうに見えるのが、その長塁?!



縄張り図によるとこの長塁は、熊笹や木々に覆われた尾根の上に、東西500mほど続いているようです。

そして、その塁壁のほぼ中央に枡形虎口と思われる遺構の記載があるんですが、薮がひどくてその虎口に続いていたと思われる旧道の入口が全くもってわかりません・・・なんとか登りやすそうなところを選んで突入しましたが、足元が悪すぎ!

ということで、長塁?を視認したところで撤退。冬じゃないと入るのは無理そうです(^o^;)

なお、この写真の場所から50~100mほど県道よりのところで、斜面に重機が入って山を崩して林道を作っている様子でした。

なので、この長塁の方にも重機が入ってくるようだと、遺構が崩されてしまう可能性もあるかと思われますので、もう一度行くなら早めにした方がいいのかも・・・


ところで、地図上でも行ってみての感じでも、この長塁と旧地蔵峠の切通しとは同じ尾根の延長線上にあるように思われます。

そういう目で切通しをよく観察しなかったのですが、もしかしたらこの長塁は旧地蔵峠まで続いていたのかも・・・?
そして、旧地蔵峠の切通しは、ストレートに出入りできない(松代側に出ると道が急に90度に曲がる)ところから見て、「長塁の虎口」の可能性も・・・?


妄想わくわく・・・☆


さて、また県道に戻り、車の行きかう舗装路をしばらく松代方面に下ってから、再度古道に入っていきます。




古道に入ったとたんに獣さんがお亡くなりになってたりして、くまさんが出ないかとどっきり☆

道自体は、すっかり落ち葉や雑草に覆われていてわかりにくいのですが、覆っているものをよけると下は簡易舗装がされています。

ということは、現在は人が入っている様子はないけれど、割と近頃まで使われていた道なのかな?




しばらく進むといつのまにか舗装はなくなってしまいますが、よく見ると、真田側から地蔵峠に登っていたときと同じく、3~5m幅で続く道の端には水はけの溝もずっと続いています。




これだけ雑草にもふもふ覆われているのに、道だってわかるのがすごい(笑)




峠の松代側は北向き斜面のせいか、真田側と比べて湿っている感じで道も少々荒れている気がします。

倒木が多くてところどころ障害物競走状態だし、くまさんはじめ獣さんが好きそうな雰囲気なので、本当にこの道で正しいのかな?と、時々不安に襲われたりして・・・





・・・が、里近くまで降りてくると、道端に古い石仏が現れて、この道で間違いない!とほっとします
(^▽^)

この石仏も、光背を確かめてみたのですが、彫られている文字は判読不能でした。。。




里近くなると、こんな道の形状も。

日光さんと意見が分かれたのですが、これはやはり堀底道なのでしょうか・・・?ちなみに両側の高くなっている部分には畑が広がっています。

伊勢宮神社まで降りてくると、もう関屋の集落です。





関屋は松代側からの峠の入口にあたり、江戸時代には番所があったという説もブログでみかけました。

こんな素敵なバス停が現れますが・・・バス便は一日に数本、しかも土日は運休ですので要注意!



「関」らしく両側から山がせり出している中を道は道まっすぐ進みます。
向こうに見えるのは松代の町。

さらに進んで振り返るとこんな感じ!
どこから降りてきたか、ひと目でわかりますよね☆




実は、後から知ったんですが、関屋の集落の北~北東側(すぐ上の写真の左側)には関屋城という街道監視のための小さな山城があるそうです。

豊栄小学校から明徳寺の方へ登っていくと、集落から比高45mほどのところに尾根を堀切で分断した単郭のお城があるとのこと。

また、明徳寺には海津城主だった高坂弾正忠虎綱のお墓があったんだそうな!!
「高坂弾正使用の槍」その他ゆかりの品々もあるのだとか・・・知らなかったとはいえ、寄らなかったのが悔やまれます(>o<)

・・・やっぱり事前リサーチって大事ですよね。。。


やがて道は松代の市街地に入っていきます。



ふつーのどこにでもある路地になってしまうんですが、ところどころにある道祖神が古い道の名残だったことを感じさせます。

そのまま進んでいきながらふと路面をみると、なにやら石が点々と一直線に埋め込まれていて気になる・・・





その道に沿って続いている由緒ありげな土塀。
ここで、ずっと一緒に歩いてきた城友だちの日光さんのアンテナにピピッ!とひっかかるものが・・・



なんと、屋根の上に葵の御紋がいっぱい?!
松代=真田なのになぜ・・・と思ったら、小松姫(「真田丸」の稲姫)ゆかりの大英寺でした!

そうか・・・小松姫は、徳川家からお輿入れしたんでしたっけ。





平成29年7月まで本堂その他修復中とのことで境内には入れなかったんですが、御朱印をお願いしたら、ご住職に「仁和堂」に入れていただき、そこでご本尊にお参りさせていただいたり、展示されている寺宝の数々を見せていただいて、いろいろお話を伺うことができました♪



これが大英寺の御朱印。

寺宝はさすがに写真撮るのを遠慮しちゃいましたが、小松姫が使われていた調度類などには、ご実家の本多家の立葵紋!

この大英寺は武蔵国(埼玉)の鴻巣で亡くなった小松姫の御霊屋として建てられたものだそうで、もとは上田城下で創建されたものを、松代移封とともに伽藍一切移されたものだそうです。

で、ご住職によると、この大英寺が松代城の南側(地蔵峠側)に建立されて大事にされているのは、対徳川を考えたときに江戸の方向に小松姫のゆかりのお寺があると徳川幕府の矛先が鈍るから・・・ほんとかな(笑)

真偽のほどはともかくとして、大英寺は徳川家ゆかりの寺として江戸幕府から所領100石の朱印状が発布されているようですし、真田家は江戸時代には外様大名ではなく譜代格として扱われています。


こうなってくると、屋根瓦が気になる!
なんて見ていたら三鱗が眼に入っちゃうし・・・残念ながら北条にゆかりの家かどうかはわかりませんでしたが(笑)




せっかく峠を越えてはるばるとやってきたので、ゴールの海津(松代)城にむかう前に、ちょっとだけご城下をぐるぐる。

ゆかり、といえば、次の写真は大河ドラマ「真田丸」でも話題になった小山田茂誠(&お松さま)ゆかりのお家。




この小山田家住宅は国の重要無形文化財に指定されているそうです。

小山田家は江戸時代も代々真田藩の次席家老を務めていて、現在でも末裔の方が(住んで?)いらっしゃるとか・・・

こんな門構えなんてカッコいい!けど、こうやって見に来る人もいるし実際に住むのは大変だろうなぁ(・・;)

そして、次の渋い門構えは・・・




長野市指定有形文化財の「矢沢家の表門」。
そう、沼田城を守りぬいた「矢沢の叔父上」矢沢頼綱に始まる家です。

嫡子の三十郎頼康には子供がなかったのですが、頼康の弟の寄邦が跡を継いで、その子孫は藩の筆頭家老格として存続したそうです。

そして、門の上を見上げると~☆




六文銭!
さすが、真田御一門ですね。




そして、この日のゴール海津(松代)城!
真田側の古道入口(の手前のバス停)から古道をたどりながら地蔵峠を越えて松代まで・・・25kmほどでしたが、よく歩きました~☆


この夜は松代城の前からバスに乗り、川中島古戦場を車窓から眺めながら長野駅へ出て、しなの鉄道で上田に戻って一泊。

地元の居酒屋(名前が上田らしく「幸村」!)のカウンターで、マスターや地元の方々、関西から来たという旅行者の方と歓談しながら地酒で乾杯。

いろいろ地元の情報を収集しながら、この日のお疲れを癒しつつ次の日の棒道歩きに向けて英気を養ったのでありました。。。

というわけで、次の日は、後回しにした行程を歩きます!
→ -信玄棒道歩き(千曲川~真田)- に続く・・・♪




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