2014年8月22日金曜日

家康公のご遷座ルート その1久能山~小田原

ひょんなことから雑談で、関東でも「徳川家康公ご薨去400年」つながりで何か地域おこしってできないのかなぁ~?という話になりました。

だいたい一般的に日本史で習うような有名な家康公ゆかりの場所は、たとえば岡崎だったり浜松だったり駿府だったりと関東以外だし、それぞれすでに地域おこし的な顕彰イベントはいろいろやってるみたい。

でも、関東だって江戸幕府開闢されているわけだし縁の場所っていろいろあるんじゃない?

とはいっても、そもそも実際には、家康公は天正18年(1590年)の国替えから慶長12年(1607年)の駿府での大御所政治開始までの、都合17年間しかお江戸にいらっしゃらなかったわけで。。。

何か個人的エピソードにつながるものって、あったっけ?

そのときの雑談では、私も含めて江戸や徳川の歴史にそんなに詳しくない人ばかりだったので、「寄進したお寺は~?」とか「鷹狩りが好きだったよね~☆」とか適当におしゃべりして終わったのですが・・・

後になってその事をつらつらと考えていて、ふと、確か「家康公は薨去後、久能山に埋葬されてから、1年後に日光にご遷座(改葬)になっている」ことに思い当たって、そのときのご遷座ルートってどこを通っていたのか無性に気になってしまったので、ちょこっと調べてみることにしました。

・・・われながら、やっぱり「古道好き?」と笑っちゃうんですが(笑)


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ご遷座ルートについて、調べてみると江戸東京博物館HPのレファレンス事例集には次のように載っていました。(すべて泊地)

元和3年(1617年)3月15日久能山出発 → 富士山麓の善徳寺 → 三島(16・17日) → 小田原(18・19日) → 中原(20日) → 府中(21・22日) → 仙波(23~26日) → 忍(27日) → 佐野(28日) → 鹿沼(29~4月3日) → 4月4日日光山座禅院

このルート図は、こんな感じ。

まず、久能山から富士川あたりまでは、「東海道」をとおって行ったのではないかと思われます。

道としての東海道は、律令時代に行政区画としての「東海道」の諸国国府を駅路で結んで整備したものに始まって、時代によって多少経路を変えつつ、最終的には慶長6年(1601年)の「五街道整備」によって「宿」が制定されたのち整備の進んだ「近世東海道」(ほぼ現在の国道1号線)に至っています。

うんうん、五街道って日本史でならったなぁ~♪

ご遷座のときにはもうこの「近世東海道」が整備されているので、おそらく久能山からは一度海側の根古屋方面に下りて、海沿いをとおる道(たぶん現在の国道150線→静岡県道197号線あたり)に沿って、清水あたりから東海道に入ったのではないでしょうか。

資料にちゃんとあたってないので、あくまで憶測ですが・・・☆

ちなみに、清水より東の興津(静岡市清水区)の東海道沿いにある清見寺は、家康公が滞在して今川義元の軍師といわれた太原雪斎に師事していた、という古刹です。

また、興津と由比の間にある薩埵峠では足利尊氏と直義、武田氏と今川氏・北条氏との合戦(薩埵峠の戦い)が行われてますね☆

そして「河東一乱」や永禄12年(1569年)の武田氏の駿河侵攻の舞台にもなった蒲原城のそばを通って富士川を渡り、富士市に入って行きます。



ところで、このご遷座ルートについて書かれた台徳院殿御実記(徳川第2代将軍秀忠公時代の幕府公式記録 日光市史中巻より)によると、この3月15日の行程について「今日のお泊りは、富士の善徳寺なり~」と記載があるようですが・・・

さて、この「富士の善徳寺」とはいったいどこ?

「善徳寺」については、富士市の今泉に太原雪斎が住持を務めたこともある今川家の官寺の「善徳寺」(現:善徳寺公園)があったのですが、武田氏の駿河侵攻の際に焼失してしまっています。

その後家康公の薨去された元和2年(1616年)に再建されたようなんですが、このほかに「善徳寺」のあった今泉に近い原田・吉永地区には「御殿」という場所(地名?)があるらしく、家康公が駿府~江戸往還に使ったお茶屋御殿のあった場所といわれているので、実際ご遷座の際に立ち寄ったのがこの善徳寺なのかどうか、定かではありません。
 
そして、これら「善徳寺」や「御殿」は近世東海道(現:静岡県道380号線)からはちょっと離れていますが、すぐ近くに根方街道が通っています。

・・・ん?根方街道!




上の地図の黒太線が東海道、赤太線が根方街道です。


根方街道というのは、富士市吉原の追分から東海道と分かれて、もっと山際、愛鷹山の山裾を沼津~三島へと至る古代~中世の東海道のことで、現在の静岡県道22号三島富士線にほぼ重なっています。

この根方街道沿いの富士市須津地区を中心として、海側には「浮島ヶ原」とよばれる大湿地帯がひろがっていたようで、近世東海道が海沿いに整備されても津波や高潮の心配がないことから、この根方街道の往来が多かったとも言われています。




赤線が根方街道、青線が東海道です。

台徳院御実記の16日の行程には「霊柩吉原より浮島が原をへて三島に泊まらせ給ふ~」とありますが、根方街道は浮島ヶ原の北側、東海道は南側を通っているので、どちらを通ったのかこれまた判然としません。

根方街道は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)ゆかりの興国寺城内を通ってたりするので、ワタシ的には「善徳寺」から三島へはこちらを通っていってほしいな~なんて思ったりして(笑)

まあ、実際には東海道整備は徳川幕府の一大事業なので、そちらを通るんでしょうけどね☆

そして根方街道と東海道は三島神社のあたりで合流して、箱根へと登っていきます。



黒線が根方街道、赤線が東海道です。統一性がなくてスミマセン(^^;)

東海道の宿場のひとつでもあるこの三島で、霊柩は16日と17日の2泊しているんですが、さてその場所は・・・?

三島には将軍宿泊所として使われたという「三島御殿」があったようです。
が、どうやら元和9年(1623年)3代将軍家光公の上洛時の造営のようなので、家康公ご遷座の際の宿泊所ではないようです。

一方で三島宿一の本陣といわれる「世古本陣」には、慶長4年(1599年)58歳の家康公が20歳のお万の方を見初めたという逸話があるようですが・・・??

宿泊について特定できるほど調べることができませんでした(^^;)



さて、東海道は、北条氏の小田原防衛の重要拠点であった山中城の中を通り抜けて、箱根峠を越え、芦ノ湖畔の元箱根から「箱根旧街道」を通って須雲川沿いに箱根湯本に下りていきます。
この道は、現在の神奈川県道732号線湯本元箱根線にほぼ重なっています。

「箱根八里」とも呼ばれるこの道は、慶長8年(1603年)からの東海道整備に伴って整備されたもので、それ以前は元箱根から芦之湯・鷹ノ巣山・浅間山・湯坂山を通って湯本に下りる「鎌倉古道」湯坂道が使われていました。

東下りをした在原業平や「十六夜日記」の阿仏尼も歩いた道だそうです。



地図をよく見ると、鎌倉古道はここでも沢へは降りずにしっかり尾根伝いのルート取りをしていることに、ちょこっと感動(^^;)

ご遷座の時にはどちらを通ったのか気になるところですが、ここでもまぁ「幕府の威信をかけて」整備した「箱根八里」を通るのでしょう。。。

ちなみに、箱根湯本の東海道沿いには(湯坂道からは川向こうになりますが)、北条5代のお墓のある金湯山早雲寺があります。

北条好きにとっては、このあたりから小田原に向って、ちょっと「聖地」な感じのわくわく感ですね~☆

「箱根八里」の東海道と「鎌倉古道」湯坂道は、箱根湯本の三枚橋で合流して、いよいよ小田原に下っていきます。


やれやれ、やっと小田原ですか・・・でも日光まではまだまだ遠い☆ (続く)