2014年8月2日土曜日

怒涛の大田原攻めその2 ~大田原城~

Twitterフォロワーの日光さんと、大田原にある「那須与一伝承館」にてじっくりゆっくり「戦国大名の書状展」を楽しんだ後、これから仙台に行くという日光さんを最寄りの新幹線の停車駅まで送っていくついでに、じゃ、せっかくだから「那須氏」関連のお城でも寄ってみましょうか・・・ということで。

伝承館から東北新幹線那須塩原駅までの通り道にある、大田原城。

天文12年(1540年)に下野国の戦国大名那須氏家臣(那須七騎)のひとつ、大田原氏によって築かれた平山城です。

・・・とはいうものの、今回は展示会以外まったくノープランで飛び出してきてしまったので、もちろん大田原城についてもノーリサーチ☆

縄張り図はおろか、場所についてさえ事前知識なしで、あわててカーナビで場所を調べてから突撃する始末(^^;)

それでもなんとかそれっぽい岡の間の「ホントにこの道でいいの?」という車一台通るのがやっとの小道に入って、ぐっ!と登ったところに・・・


あった~!大田原城の案内図!!



それにしても、縄張りのわかるしっかりした案内図があってよかった(笑)

この大田原城、私のカーナビでは「龍城公園」として出てくるんですが、大田原市を流れる蛇尾川の河岸段丘にある龍体山が城域になっています。

この前のブログでもちょこっと書きましたが、大田原氏は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、主家である那須氏が参陣せずに所領を没収されたのとは対照的に、いち早く参陣して所領を安堵されています。

そして関が原の戦いで東軍に属して加増を受け、大田原藩1万5000石の大名としてこの大田原城で幕末を迎えています。


そんな事情をさくっと即席でwebからアタマに放り込んで、「そういう目」でしげしげとこの案内板を眺めると・・・

お城は、本丸を中心にくるりと回した空堀と、その外側に二の丸、三の丸、北の丸。

ここまではとても中世のお城っぽい。

でも、坂下門の外側に描かれたおそらく台地下に当たるだろう三の丸や西曲輪、作事場や味噌蔵のあたり、そして侍屋鋪あたりはとても近世城郭らしくて、きっと江戸時代に入ってから拡張されたんだろうなぁ・・・と思ってみたりして。

そして、私たちが車を停めたこの案内板の前の小さなスペースは、どうやら坂下門上の井戸のある曲輪らしい。

そう思って回りを見渡してみると、道の曲がり具合や登り具合がいかにも枡形という感じの風格。

でも、2人して一所懸命照らし合わせてみたんだけど、どう見ても目に見えている土塁の配置と案内板での位置関係が合わないんだけどなぁ・・・見方が悪いのかな。。。


首をかしげながらも、ともかく案内板の中で「現在地」と書かれているところから二の丸に向って、右手方向に大手登城道を登っていくことに。

この道には、案内図によると二の丸に向って左側(本丸斜面側)に空堀があるはず。
でも、季節柄、藪がぼうぼうで普通の斜面にしか見えない・・・んん?!

斜面の中に一筋の「藪のない部分」が。これは!






と、坂をさらに駆け上がっていくと、果たして二の丸と本丸の間を隔てる空堀が、曲輪間をつなぐ土橋とともに出現☆

現在は土橋の上にコンクリートの橋がかかってますが(笑)

それでは、そのまま空堀を横目に見ながら緩やかな坂を上って二の丸へ。
二の丸は現在いかにも公園様の平地になっていますが、回りは薄~くはなっているものの土塁でぐるりと囲まれています。


そして、薄~くてわかりづらいのですが、一ヶ所土塁に切れ目が。
案内図と照らし合わせると、どうも稲荷祠に向う小道への虎口があった場所ではないかと思われます。

念のため稲荷祠を探してみたのですが、案内図に該当する小道はあったのですが、当の稲荷祠は確認できずでした。

ちなみに案内図の稲荷祠にあたる位置には、二の丸から同じくらいの高さの尾根が延びて削平地になっているのですが、反対に二の丸からその尾根に向う方向は土塁でふさがれていて虎口はないようです。なんとも不思議。




二の丸から本丸方向に転じると、先ほど空堀の底から眺めた土橋の上の橋(笑)。

案内図によれば、この橋の手前(二の丸側)に冠木門があったようなのですが、その形跡をまったく確認することができません。

同じく案内図によれば、橋の向こう側(本丸側)には台門という立派な門があったとされていて、おそらくこれが本丸大手門にあたるんだと思いますが、果たして橋の両側にかなり立派な土塁が見えてます。



で、さっそく喜び勇んで橋を渡って本丸に足を踏み入れると・・・

うぉー!土塁立派~!!
内側から見てこの規模の土塁が、しかも本丸曲輪をぐるん!と取り囲んでいるのは圧巻です♪




そして、曲輪広い~!!

土塁は非常に分厚くて堅固です。江戸城外濠の土塁とか駿府城の土塁とかのテイストを感じます☆

これは確実に江戸時代に入ってから改築されたのではないかというニオイがぷんぷん(笑)




土塁ウォーカーとしてはうれしい限り。しかもベンチまで用意されてるし(笑)
西側の土塁の上から外側を眺めると、大田原市街が一望の下に見渡せます。

だからなのか、こんなカンカン照りの夏の真昼間なのに、なぜか本丸内や土塁の上を歩いている人々が何組も(中には外人さんのグループも!)~☆

まぁ、眺望も聞くし、木陰も適度にあっていいお散歩コースか・・・

今は木々が生い茂っていて土塁は外側からはよくわかりませんが、このお城が機能していたころはおそらくこれほど木々はなくて、この土塁の上に土塀がめぐらされて城下に威容を誇っていたのだと思われます。

そして、本丸の台門とは反対側に裏門の虎口があります。


土塁が一部削られてしまって形が損なわれていますが、右側はもともとは木が生えているところまでが土塁だったものと思われます。

さてさて、本丸で土塁ウォークを堪能した後は、裏門虎口から下へ降り、左に進めば元の案内板のところへ戻るのですが、ここは右に進んで北曲輪へ進みます。

北曲輪も公園様に整備されているのですが、周囲は二の丸よりもしっかりとした土塁が取り巻いています。




土塁から外側を見ると、一段下がったところに北下曲輪が見えます。

案内図では、北曲輪の奥に虎口があって北下曲輪に降りられるようになっていて、さらに北下曲輪の搦手門から蛇尾川に降りられるように書いてあるのですが・・・

そこは確認できませんでした(^^;)
日光さんと散々探したんですけどね・・・やはり藪漕ぎまでしないと無理なのかな☆


北曲輪の外側のご機嫌な土塁の反対側は、本丸から落ちている切岸です。

写真ではなかなかちゃんと写せないのですが(木々が生い茂っているせいにしておこう)、相当な高低差があって、本丸内側からの高さも考え合わせると、相当な防御力だったと思わされます。



これまた案内図によると、先ほどの二の丸と本丸の間の空堀がこの北曲輪の東奥から始まっているようなのですが、その「始まり」がこの窪みです。



北曲輪から見ると何の気なしにするっと始まっているように見えるのですが、堀底側から見ると結構高さがあって、威圧感があります。

これは堀底道を通って北曲輪へ行こうとすると、正面をさえぎられて撃退されるというトラップ☆
すでに討ち取られてしまった感も・・・(笑)

この東側を通る空堀からは低い土塁越しではありますが、眼下に蛇尾川が見えます。
そして、そのまま進むと本丸の東側をぐるっとまわって・・・




元の、本丸と二の丸の間の土橋に到着~♪
文字通り、ぐるり大田原城、楽しんじゃいました。

この大田原城、今回は中世~近世の城郭と思われる、坂下門より内側の部分だけぐるっとまわりましたが、それだけでも結構見ごたえありましたね~!

でも、案内図からすると、今は市街地にかなり埋もれてしまっているかもしれないけど、坂下門外の部分も地形や道筋からたどってみるのも楽しそうなので、もう一度「お城・歴史散策」メインでじっくりまわってみたいな~!と思えたお城でした。



・・・でも、この後またノンストップ3時間で埼玉まで高速帰りしてしまって、普段あまり遠出のドライブはやらないワタシとしては、往復6時間怒涛の弾丸ドライブはやっぱ疲れた~!

そういうムリは、次回はやめましょね☆