2014年6月13日金曜日

さくっと詰めの城まで ~八王子城オフその2~

さて、本丸(山頂曲輪)のある要害地区までも行かないうちに、金子曲輪~柵門台下の遺構が見事すぎて、すでに満腹モードに入ってしまった八王子城オフの一行でしたが、当初行こうとしていた八王子城最奥部の「詰めの城(大天守)」はまだまだ先~☆



まぁ、せっかく「八王子城」に攻め上って(笑)来たわけですので、ともかくも本丸に行ってみましょうとというわけで・・・




本丸(山頂曲輪)。

縄張り図でもわかるとおり、確かにこの八王子城の最高所にあるのですが、「本丸」というには非常に狭いスペースです。


本丸の直下くらいの場所には、八王子城落城時に北条氏照家臣の中山勘解由家範が守備して戦ったという松木曲輪があります。

ご同行いただいた西股総生先生や新津竜一氏(サイガさん)によれば、この松木曲輪のほうが広い上、ふもとの居館地区も含めて八王子城全体に見晴らしが利くので、むしろ当時の戦闘指揮はこちらで行われていて、現在の本丸は櫓台のような役割を果たしていたのではないか、とのことでした。

確かに、現在の松木曲輪には「八王子城跡の碑」が建っているのとともに、めちゃくちゃ見晴らしが利いているので展望スペースとなっているようで、方向を示す案内板やベンチが置かれています。

お昼にはちょっと早い時間だけど、ベンチで眺望を楽しみながらお弁当を広げるには絶好の場所・・・☆


・・・と空を見上げると、なんとなく積乱雲の気配。

お弁当は後回しで、とにかくさくさくと詰めの城までいかなくちゃ!

というわけで、松木曲輪から南側斜面へ降り、かん井という現在でも水の出ている井戸(みんなここでポンプで水を出して大喜びでした!)の脇を通り、大きな竪堀を数本横目に見ながら一路馬(こま)冷やしの堀切へ。

ここは道を間違えなければ、等高線に沿った形で斜面に沿って続いている道で楽に行けます。
が、以前、別記事でも書いたのですが、一段上に平行して無名曲輪に続く道があるので、ちょっと間違えやすくて要注意です。

そして、馬冷やしの大堀切!


いつ見ても、このすっぱり感がたまりません♪

この場所は、詰めの城に向う道筋と、要害地区をぐるりと等高線にそって鉢巻のように回っている「馬回し道」とが交差する場所にあたっている重要ポイントだそうです。

それにしても、こんな山の中に馬なんてどうやってあげたんだろうね~☆といつも気になってしまう場所でもあります(笑)

ちなみに前回八王子城に来たときに、この堀切からY字状に落ちている竪堀を,、この日の散策メンバーのあきさんと一緒に見つけて、かなり感動しました☆
(番号付け忘れました。次の縄張り図の右の方です)


ここから先はひたすら尾根をたどっていく道です。

というよりも、尾根のところどころ防塁を作って、その間の尾根をつないで防衛線を構築している感じになっています。

防塁のひとつひとつは曲輪というには小ぶりで、だから詰めの城のあたりは「城」といいながらも、よくみられる曲輪の連なりによる「城」とはちょっと違った形です。むしろ「城壁」?

次の写真は⑤の石塁です。



縄張り図中にも表現がされてますが、塁の回りを石でぐるりと補強してあります。



実はこの塁の回りだけではなくて、よく見ると石の帯が途切れ途切れながらもずっと横に続いています。

そして、これが段がずれてつながっているライン上にはなかったり、一本ではなくて二本になっているところも。

その上、これってセットバック?とも見える段差が・・・

西股先生によれば、八王子城をじっくり回ると実はこのように、2mほどの高さで地面に段が施されていたり、そこに積み上げられていたらしい石や、石積みどのものが斜面にずっと続いているのが確認出来るそうです。

そして、これまた縄張り図にも表現されていますが、最前線?にあたる詰めの城中心に、左右(南北)に約600mにわたって石塁の跡や石積みがずっと続いていますし。。。

ということは、八王子城の「外側」の斜面は、金子曲輪や柵門台下にあったような段々の石垣(八王子オフその1参照)で取り巻かれていたのではないか・・・?

八王子城はどちらかというと対甲州で滝山から移転していたのを、対豊臣のために急ごしらえで補強したイメージがあったので、こんなに大規模な土木工事が行われていたなんて想像もしませんでした。

八王子城山の地面は非常に崩れやすいので、もとから石垣をつくる必要があったのかもしれませんが・・・
現に石垣石積みはどんどん崩れていっているようなので、柵門台下の石垣のように保護が進むといいなぁ☆

そして、さらに進むと、先ほど触れた ⑥詰めの城手前(南側)の登り石垣 が現れます。



登り石垣・・・というか、登り勾配に作られた土塁に石が積まれていた遺構なのかなと思うので、強いていえば、登り石塁?

サイガさんや西股先生が登っている後ろ姿の左側に続いているのがそれです。
もう土塁様に積まれていたらしい石が散乱してごろごろ残っているとしか見えません。。。

ただし、詰めの城の先(北側)はハイキングコースから外れているせいか、石積みなどが確認できたりと、南側よりは遺構が良好に残っているようです。

そして、詰めの城。
「伝大天守跡」とも言われていて、ストーンサークルのような形に石がごろごろして遺構っぽくなっていますが、ここに建物が建っていたという痕跡はなく、それどころか詰め城とするにも狭すぎる!

見事なのは、この ⑦詰めの城の西側の大堀切 です。



本当に思い切りよくざっくりと、かつスパーン!と尾根を切っている堀切です。
これだけの堀切を作るには、相当な土木量だったと思います。

詰めの城の西方向にはずっと尾根が続いていて、富士見台という富士山の見えるスポット(そのあたりにも竪堀などの遺構があるという話も)を通り高尾のほうまで続くハイキングコースになっているようです。

ということは、甲州方面からは小仏や高尾あたりからこの尾根を伝って詰めの城あたりまで来れてしまうということで、そういう意味でもここは最前線だし、思い切りよくすっぱりと堀切っておく必要があったのでしょう。

だから、私としてはこの詰めの城はよく言われている「八王子城の詰城(本丸が陥落したときの最後の拠点)」というよりは、むしろ対甲州の最前線を守る防衛線の要の防塁であるような気がしてなりません。。。




ところで、この詰めの城西側下の大堀切の岩のひとつに、縦20cm横40cm奥行き15cmくらいの方形の穴があいています。

八王子城跡ガイドツアーのHPでも「祈壇だったんですかね?」と疑問形で紹介されているし、この大堀切に行くたびにいつも何だろう?と不思議に思っていたんです。

今回西股先生にお聞きしてみたら、橋脚の穴ではないか、とのことでした。

この堀切を行き来するために平常はこの場所に木橋をかけていたと考えられ、穴のある壁と反対側の壁の上の方に微かに段が残っているので、そこに橋板を取り付けて反対側に渡していたのではないか、と。

そして、その橋板を支える橋脚をこの穴から斜めに立てて固定して、非常時には木橋を橋脚ごと切り落としていたのではないか、ということでした。

ふむむ~☆祈壇としてはかなり小さくて仏様を納めるづらいかも~とは思っていたので、自分的には、どちらかといえば橋脚説に一票です。
もしかしたら今後新たな発見があって新説が出てくることもアリかもしれませんが(^^)

さて、ここまで来たところで空を見上げると・・・すでに暗雲立ち込め遠雷がごろごろ、いつ降り出してもおかしくない状況!

むしろここまでよくもった?
先生方とご一緒のこの日こそは、本当はこの先の詰めの城北側にある石垣群を見に行きたかったのですが・・・

そこは天候不順による「勇気ある撤退」!
このあたりには雨宿りできる施設はありませんので、大急ぎで本丸直下の東屋を目指してもと来た道を戻ったのでした。

・・・続く。