2012年9月8日土曜日

箕輪城は、みどころいっぱい・・・~箕輪城その1~

群馬の城攻め、前回後閑城攻めをUPしてからずいぶん時間が経っちゃいましたが・・・(^◇^;)


さて、午前中に後閑城を攻めお昼にタルタルカツ丼で鋭気を養ったあとは、いよいよメインイベントの箕輪城攻めなのだ☆

箕輪城は群馬県高崎市箕郷町にある平山城。

明応・永正の頃、長野業尚により築城され、長野氏は武田信玄・北条氏康・上杉謙信が勢力を争ったこの上野の地で、最後まで関東管領山内上杉の再興を図って奮闘し、少なくとも3回(弘治元年(1558年)、永禄元年(1558年)、永禄4年(1561年))、にわたって武田氏を撃退した城なのだということです。

結局、永禄9年(1566年)に武田氏によって落城、その後織田信長家臣の滝川一益、北条氏邦と城主が変遷し、天正18年(1590年)後北条氏が滅亡すると、江戸に入国した徳川家康の重臣井伊直政が12万石で入りました。

以後、慶長3年(1598年)に高崎に移転して廃城となるまで、江戸の西北の要として城下町も整備され、城も大改修が行われたということです。

この写真は箕輪城の縄張り図。
アタマにざっと叩き込んで・・・さあ出発!






今回は、本丸からほど近い搦手側の駐車場に車を止めて城攻めです。

縄張り図にある現在の大手は井伊氏の時代に付け替えられたもので、長野氏時代にはこの搦手側が大手だったそうです。

100名城ということで地元も観光に力を入れているのか、あちこちに「箕輪城」のぼり旗が立てられています ・・・が、どれも裏側を向いているところがミソ(^^;)

くねくねと道を登っていき、二の丸を横目に見ながら本丸へ。
本丸に入る手前右側には、角馬出とみられる不思議な曲輪様の空間が・・・

本丸跡の土塁などをぐるっと見たあとその奥の御前曲輪へ。



御前曲輪は長野氏時代にこの城の精神的中枢であったということで、落城の際も長野氏以下ここで自刃したのだとか・・・

堀の発掘調査結果から、かつては御前曲輪が本丸として機能していたのではないかと考えている方もいるようです。
だとすると、なんとなく落城時にここで自刃したのもちょっと納得。


右側の写真は本丸からの御前曲輪の入り口から奥を見たものです。

小さく東屋のように写っているのは井戸。この中から多くの五輪塔が発掘されたんだとか。深さは20mあるそうです。

この井戸の裏側は本丸と御前曲輪をとりまく大きな空堀に面しているのですが、ちょうどその井戸の裏側あたりに、対面する通仲曲輪につながる橋があったのではないかという遺構が発掘されたようです。,


確かに、この部分だけ土塁が切れて少しせり出しているように見えます。

反対に通仲曲輪の方は堀で分断されて孤立しているような印象もあるので、曲輪の使い勝手からいって曳き橋があっても当然のような気もします。

さて、ひととおり本丸と御前曲輪の土塁や櫓台跡などを見て回った後、いよいよ本丸と御前曲輪の間から大きな空堀に突入!

この写真は本丸と御前曲輪を区切る浅めの堀。
これだけでもずいぶん大きいなと思うのに、この先の急斜面をさくっと藪をかきわけながら降りていくと・・・



超デカイ!これ、堀底ですよー☆  うそでしょ・・・?
この直前に行った後閑城とはぜんぜん違う・・・


案内していただいた城郭研究家のサイガ先生(新津竜一さん)によると、この大きな堀はおそらく井伊氏の時代になって大普請を行った時に掘られたものなのではないかということです。

確かにサイガさんに指摘されたのですが、二の丸や通仲郭まわりの細めの堀と、大堀切や本丸周りの広ーい堀との間には彫りそこの深さに段差があるようです。

ということは、もともとあった堀をさらに掘り広げて今のような広い堀にしたのではないか、と。


そんな話をしながらつらつらと堀底を歩いていくと、ちょうど御前曲輪の西側あたりに来たところで古い石垣発見!



さっそく石垣に駆け寄り調査を始める、城ガール隊「石垣萌え」のあいすさん(笑)

この石垣の前でひょいっと上を見上げると・・・
あら?先ほどの御前曲輪の「橋の遺構」土塁が切れていたところの真下ですよ~!







そして、くるっと振り返るとそこは通仲曲輪。もしかしたらそちらにも遺構は残っているのかもしれませんね。

・・・がそちらは藪が深くて今回はとりあえず踏査断念。



石垣をしばし堪能した(笑)あと、そのまま今度は北側の丸馬出の方へ。

箕輪城は全体的に角馬出が多いんですが、ここは「丸」で様式が他と違います。

また、丸馬出とその前の独立した曲輪の間の堀は、本丸・御前曲輪まわりの大きな堀よりかなり浅くて、すっかり藪に覆われてしまっています。

そしてその藪をかき分けて堀を進んでいくと、曲輪から確かに丸馬出に向かって降りているように見える土橋のように見える遺構が・・・


やっぱ、どうみても土橋だ、土橋!

写真は、その土橋の上でうれしそうなサイガ先生。ブレブレですが・・・(笑)

サイガ先生によると、この丸馬出と曲輪のあたりが箕輪城の初期のころの形態をよく残していて、この城は度重なる普請によって南の方へ向かって開けていったのではないかということでした。

そして、今度は稲荷曲輪を左手に見ながら、大きな堀を南下。

稲荷曲輪から搦手方面に続く土手様の曲輪は、その外側に掘られた堀とも相まって、外から来る敵には結構突破しづらいのかな。

そしてやっとの思いで突破した~と思ったらこの大きな堀で足止めされて、本丸から攻撃されちゃうんだね・・・なんて妄想が膨らむ膨らむ!


膨らんだまま・・・元の二の丸から本丸に入るところの角馬出そばまでやってきて、やっと御前曲輪と本丸を一周ですが、まだまだ二の丸三の丸が残ってる・・・


ほんとに箕輪城はみどころいっぱい!そして通仲郭や蔵屋敷みたいに本丸や御前曲輪の位置との関係ではよくわからない曲輪もあって、謎も結構ありそう・・・

とりあえず、一周して二の丸のあずまやで水分をとりながらひと休み~☆
というわけで、この続きはまた次回(笑)





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