2015年2月17日火曜日

ちょっと寄り道、毛呂氏館跡。


今年に入ってから埼玉の毛呂山町にある病院に定期的に通っているのですが、今回は予約時間よりもちょっと病院に早く着きすぎてしまったので、待合室に入る前にどこか寄り道をしようかな~とつらつらと考えていて・・・

そういえば、病院のすぐ近くに毛呂氏館があったな~☆

実は、案外地元のお城って、いつでも行けると思うと後回しになってしまうもんで、この毛呂氏館も実はまだ未訪だったんです(^^;)

時間的にもちょうどよさそうなので、寄り道してみることに♪





毛呂氏館はJR八高線毛呂駅から1kmくらいのところにある、長栄寺の境内と裏山がその城域になりますが、外秩父山地の末端部にあたる石尊山の麓にあたります。

長栄寺の前に余裕で車を停められるスペースがあるので、ちょっと停めさせてもらって案内板に沿って山の中へ。

でも案内板に沿ってるのに、結構、藪?





小道をたどりながらガサガサと歩いていくと、明らかな土塁を乗り越えて郭様のスペースに。
緩斜面を削ってつくった広めの削平地。ここが毛呂氏館の主郭です。


毛呂氏は毛呂山町あたりの毛呂郷の在地領主でした。
その歴史は古くて、毛呂氏の祖の季光は源頼朝の側近として仕え、毛呂郷の地頭職を務めていたようです。

この館跡はもしかしたらその頃のものなのでしょうか。
主郭は四角い削平地の三方を土塁で囲み、その外側に空堀をめぐらした簡素な造りで、およそ戦いには不向きに思われるので、戦国時代に入ってからのものではなさそうです。

写真は、土塁を乗り越えた外側にある空堀。
元はもっと深かったのかもしれませんが、今はうっすら・・・といった印象です。





場所によっては腰郭ともとれるかも?

時代が下って室町末期~戦国時代に入ると、毛呂氏の当主顕繁(顕重)は山内上杉氏に属して、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長享の乱では永正元年(1504年)の立河原の戦いに参戦しているようです。

しかしながら、大永4年(1524年)後北条氏が扇谷上杉氏から江戸城を奪取すると、顕繁はいち早く後北条氏に服属したので、山内・扇谷両上杉氏は毛呂郷に進攻し、毛呂要害に制裁的攻撃を加えました。

齋藤慎一先生の「中世を道から読む」によると、毛呂郷には、鎌倉街道上道に平行して鉢形~毛呂~勝沼~八王子~当麻と結ぶ戦国時代の主要幹線が通っていて、当時鉢形城を拠点としていた山内上杉氏もしばしばこの道を使用していたとみられるなど、交通の要衝地であったため、両上杉氏にとって毛呂郷を新興の後北条氏に抑えられるのはイタかったのかもしれません☆

ただし、この時の「毛呂要害」はこの毛呂氏館からさらに西に1kmほど入った所にある龍ヶ谷(要害)城をさしているものと思われますので、やはりこの毛呂氏館には平時の居館のみがあったのでしょうか。

そして、毛呂要害争奪戦後の毛呂氏は、後北条氏に従って天文16年(1547年)の松山城攻めや永禄6年(1563年)の国府台合戦など各地を転戦するとともに(関八州古戦録)、越生の各寺院に保護を加えたり、この毛呂館の敷地内の長栄寺を開基したりと、この毛呂郷で着々と在地領主としての立場を強化していきました。

が、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに際して、毛呂土佐守秋重は北条氏に味方して八王子城に籠城。一族とともに討ち死にし、鎌倉時代より続いた毛呂氏の在地領主としての歴史は幕を閉じました。

この毛呂氏館がいつまで城館として使われていたのかは、定かではありません。
ちなみに、毛呂氏自体はその後、土佐守秋重の後裔は徳川家に召されて旗本として存続、秋重の弟秋綱の流れも大谷木氏と改め、やはり徳川家旗本として続いています。


一方、毛呂要害争奪戦の舞台となったと思われる龍ヶ谷城も、ちょっといわくがあって未訪なのですが、次の診察の時には行ってみよう!とココロに誓った?お館訪問でした♪