2014年8月2日土曜日

怒濤の大田原攻め ~戦国大名の書状展~



朝も早くからTwitterフォロワーの日光さんと待ち合わせて、高速道路をひた走ること3時間。

しゅたり!と降り立ったのはここ、栃木県大田原市にある「那須与一伝承館」。

道の駅「那須与一の郷」敷地の端っこに建っている、ちょっと不思議な施設です。

「那須与一」は那須氏2代目当主と伝えられる人物で、「平家物語」屋島の合戦で平家方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす話で有名ですね。


でも、この「那須氏」は戦国時代を通じて、大田原よりもずっと南にある烏山城を居城としていたはず。なので、なんでこの場所で「那須与一」なのか、とても不思議。

那須与一のお父上(那須資隆)が築城したという高館城(大田原市)も、道の駅からはちょっと離れてるし。

この道の駅の、道路を渡った斜向かいにある「那須神社」は、那須七騎のひとつ黒羽城主大関氏の氏神で、社宝に那須与一が奉納したといわれる太刀があるなど、那須氏の尊崇も篤かったということなので、そこからきているのかもしれません。


でも、どちらかというと戦国時代好きな日光さん(熱烈な武田&伊達ファン)とワタシ(小田原北条氏好き)が、なぜ、あまり戦国期には関係のなさそうなこの「那須与一伝承館」にやってきたかというと・・・



この展示目当て!

この「那須与一伝承館」で6月28日~8月24日まで開催されているテーマ展示「見参!戦国大名の書状」です☆

この展示も非常に不思議~!
伝承館のHPや道の駅のイベント情報を見ても、どこにも出てきません。

たまたま私はTwitterで流れてきた情報をすくいあげることができたんですが、この展示会の情報って大田原市役所のHPに載ってるものしか探し出せないんですよね~。

で、今回の展示会の「売り」は、この展示会的にはど真ん中に飾ってあった直江状の写しかな?

それに、武田氏に従っていた上州の国人領主・高山氏にあてた武田信玄や武田勝頼の書状の数々(←日光さん飛びつき!)

そして天正18年(1590年)小田原攻めの際の、鉢形城攻撃にかかる豊臣秀吉のご朱印状も、ワタシ的には目がキラキラ☆


また、こんなのもワタシ的には貼りつきモードでした。



上杉謙信から那須資胤(?~1583 那須氏20代目)あての書状。

さすがに展示会で写真撮影はご法度でしたので、図録から掲載です。

これは天正2年(1574年)に北条氏政の関宿城攻撃に対する救援のための関東出兵において、謙信が資胤に参陣を促しているものだそうです。

で、この書状の中に、「~去七日利根越河 鉢形城下成田上田領悉放火~」と書いてある部分があって、それに対する解説が「~鉢形城下(埼玉県大里郡寄居町)、成田(埼玉県行田市)、上田領(長野県上田市)~」とされているのですが、それを見て日光さんとワタシ、しばし、う~~~ん・・・

この解説だと、文の並びがヘンだよね?

「鉢形城下」はいいとして、「成田」は行田の忍城成田氏を指しているのに、「上田領」の「上田」は場所(上田市)?

考えてみると、武田信玄が亡くなったのが元亀4年(1573年)、長篠合戦が天正3年(1575年)なので、この間の1574年はまだ真田氏は武田氏に属していましたし、そもそも上田城はまだできていなかった(築城は天正11年(1583年))んですよね。。。

鉢形城下、成田(領)と埼玉の話が続いているんだから、「上田領」も同じ埼玉の武蔵松山城(元亀年間以降は北条氏家臣上田氏の居城)を指すのだと、ちょっとすっきりするんですけど☆

ただし、武蔵松山城に関しては「松山衆」「松山領」というのは見かけるんですけど、「上田領」というのは見かけたことないし、永禄4年(1561年)に上杉謙信が松山城奪取しているけどその後北条に取り返されてるし、天正2年の関宿合戦の腹いせに騎西城・菖蒲城は焼き討ちされてるけど、松山城については見てないし・・・

ちょっとすっきりしない解説に悩んでしまいました・・・


さて、この天正の頃には、この大田原・那須のあたりは周囲を蘆名・宇都宮・佐竹の各氏に取り囲まれ、その北方には伊達氏が、また南にはひたひたと小田原北条氏が勢力を伸ばしてきている状況でした。

で、今回の展示会にも佐竹義重から那須資胤にあてた、両家の同盟関係を確認するための何通もの起請文が展示されていて、その必死さがひしひしと伝わってきました~!

でもなんといっても、今回ワタシがかぶりつきになったのはコレ!




伊達政宗から那須資晴(1557~1610 資胤の息子)あての条書!
これも図録から掲載です。

これまた天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、伊達政宗と那須資晴はすぐには小田原に参陣しなかったのですが、これは両者が密かに同盟を結んでいたからではないかという説があります。

それをうかがわせるのが、この条書。

三か条からなっていて、①出馬延引之事(出馬を延期すること)、②世上浮沈共ニ尽未來御入魂之事(世上が浮沈しようとも共に協力すること)、③当備之事(備えにあたること) について書いてあるということです。

結局この後、政宗は小田原に参陣して秀吉に臣従を誓って、辛くも旧領を安堵されたのですが、資晴はついに参陣せず、烏山領を没収されることになったのでした。

この条書に殉じたんですかねぇ・・・?

ちなみに、那須氏はその後まもなく、政宗同様に小田原に参じた家臣の大田原晴清の陳謝により、5000石をあてがわれて(所領の一部復活)、かろうじて改易は免れたということです。

実は、その際の豊臣秀吉の書状が数通、このテーマ展の中ではなく常設展示の方にさりげな~く並んでいて、テーマ展の図録には入っていなかったので危うく見逃すところでした。

見つけて思わず、感涙!

ホント、「生き馬の目を抜く」というのか、「世知辛い」というのか・・・
適切なコトバが思い浮かばないんですが、戦国時代を生き延びることの難しさといいましょうか・・・☆


そんなこんなで、展示点数はそれほど多くないテーマ展でしたが、2時間近くかけてじっくりゆっくり堪能してしまいました。

強行軍だったけど、来てよかった♪

この後は、せっかくなので那須氏を出し抜いた?家臣・大田原氏の本拠、大田原城を見にいきます~!(つづく)